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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第5章 利休、その後の茶の湯

なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第5章ー利休、その後の茶の湯ー

屋敷の日本庭園

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)を経て徳川家康が江戸幕府を開きました。以後、江戸時代は大政奉還(1867年)まで250年以上続きます。この間、ずっと安泰だったというわけではなかったようですが、250年以上と言いますから、それまでの歴史からみると相対的には安定した時代だったと言えると思います。

戦乱の世を経て、時代の空気が変わると茶の湯はどのように変化していったのでしょう… 師から弟子へと引き継がれていった茶の湯を、二人の大名茶人の茶室から検証してみました。

独創的で華やか、古田織部の茶室

8つの窓が実際にあるのか写真からは数えられませんでしたが、利休の仄暗い待庵(たいあん)とは対照的に、窓が多くてとても明るそうな茶室「奈良八窓庵(ならはっそうあん)」。戦国時代後期〜江戸時代初期の古田織部(ふるたおりべ)=本名:古田重然(ふるたしげなり)という大名茶人の好み(または作)と言われています。

中心をずらした上下2段の窓「色紙窓(しきしまど)」や、床の間(とこのま)の脇の壁にも窓があります。床の間に飾られた掛け物や花が明るく見えるようにと開けられた窓で、「掛物窓(かけものまど)」「墨蹟窓(ぼくせきまど)」「花明窓(はなあかりまど)」または織部の考案と言われることから「織部窓」などと呼ばれています。
織部は利休を師としましたが、「他の人と違ったことをしろ」という師の教え通り、茶室に「華やかさ」を持ち込んだ独創的な美が評価され、徳川秀忠に茶法を伝授し天下の茶の湯者となります。

驚きの大空間、小堀遠州の茶室

織部の弟子、小堀遠州(こぼりえんしゅう)=本名:小堀政一(こぼり まさかず)。建築・造園を担当する作事奉行という役職で才能を発揮したそうです。 遠州が、京都にある臨済宗の寺院、龍光院(りょうこういん)に創建したという茶室が「孤篷庵忘筌(こほうあんぼうせん)」。大徳寺に移築後、江戸後期の寛政5年(1793)にオリジナルは焼失してしまいましたが、古図を元に忠実に復元されているそうです。
一畳台目(一畳と4分の3畳)という、極限の狭さまで空間を追い込んだ利休のストイックな茶室は何だったのか、驚きの大空間は、なんと12畳。草庵式の侘びた茶室ではなく、書院式と呼ばれる格調高い立派な茶室です。
眺めるための「庭」ではなく、日常から非日常へと誘(いざな)う通路として、世俗を断ち、自我を捨てて仏心を露(あら)わにする場とされていた露地(ろじ)。ところが、この茶室では、驚くことに庭に面した縁側(正確には広縁と落縁)の障子が上半分しかなく、吹き抜かれた下半分からは、造園を得意とした遠州らしく、露地の眺めを茶室に取り込む造りになっています。「第4章 閉ざされた茶室空間の謎解き」でテーマとした、俗世間と茶室空間を隔てるはずの結界は、もはや崩壊状態です。

江戸時代になると、茶の湯の担い手は商人から武士へと移りました。利休から織部、そして遠州へと引き継がれた茶の湯は、その茶室を見る限り、利休が求めた道とは異なる方角へと向かったようです。これらの茶の湯は、武家茶道(大名茶)と呼ばれるそうです。

「なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか」
色々調べてみても、どのように開け閉めするか、といった作法的なことしか見つけられなかったことを思い出しました。「茶の湯」から「茶道」へ、そして、これからどんな姿へと変化していくのでしょう。

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