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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第4章 閉ざされた茶室空間の謎解き

日本の信仰と宗教の歴史

神道

神道(しんとう/しんどう)は、自然、自然現象の中に様々な神「八百万の神(よろずのかみ)」を感じとり、郷土のために尽くした偉人たちや先祖を祀り信仰の対象とするなど、日本人の暮らしの中から生まれた信仰です。神社を中心として、初詣、厄除、七五三、結婚式、地鎮祭など、今でもお馴染みの行事で日本人の日常生活に溶け込んでいます。開祖のような人はいないため、いつからというのはありませんが、ヤマト王権(大和朝廷)によって祭祀(さいし)として制度化されたということなので、宗教らしさを帯びたのは5世紀〜6世紀頃でしょうか。奈良時代(710年〜794年)以降は、外来の仏教や儒教の影響を受け、幕末までは神と仏が融合した信仰体系「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」であったといいます。

仏教

仏教が日本に伝わったとされるのは主に2つほど説があるようですが、どちらの説でも6世紀と考えられています。仏教が伝えられると、神道派の豪族と仏教信仰派の豪族との間で対立が起きたそうです。権力闘争とも言われていますが、仏教派の蘇我馬子(そがのうまこ)が厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)などとともに、反仏教派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし決着がつけられました。以後、聖徳太子(574年〜622年)は、法隆寺、四天王寺などを建立し、仏教を積極的に取り入れ、最初の女性天皇となった推古天皇(すいこてんのう)のもと、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったと言われています。

仏教と密教

桓武天皇像
桓武天皇像(16世紀)
作者:不明
所蔵:延暦寺
天皇一二四代(別冊太陽/平凡社1988)
Public domain / Source: Wikimedia

密教は、平安時代(794年〜1185年)初期、最澄(さいちょう)によって初めて紹介されましたが、本格的に伝えられたのは、真言宗の開祖である空海(くうかい=弘法大師)が唐から帰国した806年とされているそうです。仏教の一派と単純には言い難いようですが、釈迦を開祖とする点では、禅宗も含めて同じです。

日本における仏教と密教の関係がよく分からなかったのですが、興味深い話がありました。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、薬師寺、東大寺、唐招提寺といった現在でも有名な寺院が建立されました。仏教によって国を守り安泰にするという鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもと、奈良時代には多くの寺院が国営であり、次第にその政治的な影響力も増したようです。しかし、それを嫌った桓武天皇(かんむてんのう)は、最澄、空海を唐に送り出して新しい仏教である密教を学ばせ、そして広めることで奈良の旧仏教を抑え込もうとしたようです。平城京からの遷都も、それが理由のひとつ*とされています。

*奈良仏教各寺院の政治的影響力を避けることもあり長岡京へ遷都(784年)しましたが、長岡京から平安京への遷都(794年)は、天災や暗殺など不幸な事件が続いたためと言われています。

禅宗

「茶禅一味」と言われるほど茶の湯と縁が深い禅宗は?というと密教よりだいぶ後の時代、13世紀の鎌倉時代(1185年頃〜1333年)に栄西(えいさい/ようさい)が日本に伝えたと言われてます。栄西は、最澄が創建した比叡山延暦寺で天台の教義を学んだ(恐らくこの頃には密教も含まれていた)後、宋にわたり禅を学びました。

日本の宗教年表

ここまでの宗教の歴史を、簡単な表にまとめてみました。

区分 年代 出来事
古墳時代 3世紀中頃〜7世紀頃 神道の時代。仏教伝来(6世紀半ば)。神道vs仏教(6世紀後半)
飛鳥時代 592年〜710年 法興寺、法隆寺、四天王寺の建立。聖徳太子による仏教を基調とする政治
奈良時代 710年〜794年 鎮護国家思想のもと奈良仏教興隆
平安時代 794年〜1185年 密教伝来。空海による真言宗、最澄による天台宗の興隆
鎌倉時代 1185年〜1333年 禅宗伝来

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