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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第2章 禅とは何か

「仏(ほとけ)」とは

少し分かったような気になりましたが、まだ曖昧な言葉が残っています。「仏の心」「仏の悟り」「仏性」とは何でしょう。禅を理解しようとすれば、度々目にすることになる重要な言葉です。大辞林によれば、仏性とは「仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性」とはありますが…

日本では、死者を「ほとけ」と呼んだりしますが、これは仏教的な考え方(死後に極楽浄土へと往生し成仏する)から来ているそうです。またその他にも、「慈悲深い人」「善良な人」なども「ほとけ」と言ったりします。
一般的に「仏(ほとけ)」と言えば、仏教の開祖、「仏陀(ぶっだ)」=「釈迦(しゃか)」=「ゴータマ・シッダールタ」のことを指します。
「仏陀」とは、サンスクリット語の「budh」の過去分詞形「buddha」のことで、悟った,目覚めた、といった意味があるそうです。また「釈迦」は、シャーキャという北インドの一部族の名だということなので、本来は、シャーキャ族のゴータマ・シッダールタが、悟りを得た後に「buddha(仏陀)」となった、という意味になります。

※「budh」=「仏」とは確認できませんでした。むしろ、buddhaの「末尾の母音の脱落などがあり「ブト」と省略され、それに「仏(佛)」の音写が当てられたとの考え方もある(Wikipedia)」とのです。

参考までに記号的にまとめてみました。

→現在
仏(ほとけ) = 仏陀(buddha) = ゴータマ・シッダールタ = 釈迦(シャーキャ)

→本来
仏(ブト?)仏陀(buddha)ゴータマ・シッダールタ釈迦(シャーキャ)

「仏の心」、または単に「「仏(ほとけ)」と言ってしまう事も多いように思いますが、これも文字通りに受け取れば、仏陀(悟った,目覚めた人)となり仏教を開いたゴータマ・シッダールタの心、またはその悟りの世界、となりそうです。
「仏性」とは、元々は経典に出てくる言葉だそうです。悟りの世界(=仏)は、誰でも生まれながらに持っているもの(=性/さが)、と解釈されているようで、説明のバリエーションとして「仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性」などと辞書にはありました。

「仏(ほとけ)」について更に調べてみましたが、明確に定義されているものはないようです。文字通りの直訳以外に定義するのは難しく、曖昧な使われ方をされますが、言い換えれば含みの多い言葉でもあります。具体的な説明を加えず、「仏教を開いた人の心というのだから、きっと善と慈悲と秩序に満ちた世界に違いない」などと、漠然としたイメージとして受け取る側に解釈を預けてしまうことが多いように感じました。解釈の方法か仕方の問題か、または何か他に理由があるからなのでしょうか。

更に疑問は尽きません。 「悟りを得る」とは、どういうことでしょう。

禅の祖であった達磨が残した言葉として「不立文字(ふりゅうもんじ)」という基本思想の一つがあるそうです。
「不立文字」とは、「経論の文字によらないで,師の心から弟子の心へと,直接に悟りの内容を伝えてゆく(ブリタニカ国際大百科事典小項目事典)」、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する(Wikipedia)」などという解説があります。

この「不立文字」については、解釈の違いから論争もあるようです。
常識的に解釈すれば、仏の教えも知らず「仏の心」の発見はできないので経典の勉強はします。しかしそれだけではダメで、座禅によって体得しなさい、となるのだと思います。
一方、ストイックにとれば、言葉であり文字である経典を否定し、ただひたすらに座禅を組み修行することで、仏が悟った世界や境地とはどういうものなのか体感しなさい、となるかもしれません。これでは、あまりに感覚的すぎて、教えを広く伝えていくには都合が悪そうです。しかし真理はここにあるような気もします。

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