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| 自由研究室 |
なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第2章 禅とは何か

「悟り」とは。「空」と「無我」

「悟り」とは何でしょう。

長い間、理解しようと努力してもなかなか分からなかったことが、ある日突然ひらめいて、全てを一気に解決してしまう普遍的な答えのようなものに気付いた時、「悟った…」と感じるのでしょうか。以来、ものの見え方が、以前と少し変わるかもしれません。

「普遍的な答えのようなもの」は人によってそれぞれですが、禅においては「仏の心」「仏の悟り」「仏性」「真の姿」「無我の境地」「仏教的真理」などと表現されていました。
それは何で、それを得るとはどういうことでしょう。調べても、靄(もや)にかかったようで、全く「悟った…」感じには至りません。

そんな初心者にも優しい言葉で語りかけてくれたのが、「ひろさちや」さんという仏教思想家の方の解説です。「道元が到達した豁然大悟(かつぜんたいご)」というタイトルで、「NHKテキストView」というWebサイトに掲載されています(2020年9月現在)。タイトルの四文字熟語に圧倒されてしまいますが、「豁然(かつぜん)」とは心の迷いや疑いが消えるさま、「大悟(たいご)」とは、はっきりと理解することの意です。

道元という修行僧が、どのように悟りに達したのか、という話を引き合いに、(禅的な)「悟りを得る」とはどういうことなのか解説されています。道元は、鎌倉時代初期の禅僧で、後に日本における曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖となりました。

内容は以下のようなものです。

座禅修行中の道元は、師である僧が、居眠りをしている修行僧を叱った「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉から悟りを得ます。「身心脱落」とは、身も心もすべて脱落させるということ、つまり「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だといいます。

「自我」とは、他人と区別される自分自身のことです。西洋的には、全ての中心的な存在であり、自我の主張こそ、競争社会で勝ち残るために良しとされるもの、というイメージがあります。
しかし、東洋的というか仏教的には、自我自体は良いものとも悪いものともされていないようで、「問題はそれが他人との対抗意識や競争意識につながること」といい、「そんな自我は全部捨ててしまえ! というのが「身心脱落」」だと解説されています。

ひろさちやさんは「自我」を角砂糖に例え、「他人の接触は、角砂糖どうしのぶつかり合い」と表現しています。道元の「身心脱落」は、「角砂糖」どうしがぶつかって傷付けあいボロボロに崩れ、それでも修復をはかり角ばった砂糖の状態を保とうとするくらいなら、「角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか」という、アドバイスだといいます。

円相図
Kendrick Shaw / CC0 / Source: Wikimedia

「湯の中」とは「悟りの世界」の喩えです。角砂糖は消滅したのではなく湯の中に溶け込んでいます。湯の中も、ほんの少しだけ甘くなりました。
「一般に言われる“悟りに達した” “悟りを得た”といった表現はちょっと違うかも」と、ひろさちやさんは更に続けます。「「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させる」ことだといいます。
禅の話では、「自分自身を空(むな)しくする(妙心寺Webサイト)」など「空(くう)」とか「無我」という言葉がよく使われます。「湯の中」に、形をなくして溶けてゆく角砂糖を想像する時、初めてそれらの意味が少し分かった気がします。

角砂糖が溶けていく「湯」、つまり「悟りの世界(=仏)」とは何か。この点については、「真理の世界、宇宙そのもの」と説かれています。残念ながら「言葉」として釈然としない曖昧さが残ります。「宇宙」とは、「Universe」や「Space」という物理的な存在ではなくて、より秩序ある体系として観念的な宇宙「Cosmos」を指すとは思いますが、いずれにしても抽象的な表現です。そして、その宇宙は誰でもが生まれながらに持っているもの(仏性)とされていました。
※道元は、更に大胆な世界観に至ります。

「不立文字」

真理は求めて文字で理解するようなものではないようです。
脱落、脱落。

参考文献および参考Webサイト

・NHKテキストView「道元が到達した豁然大悟」
・妙心寺Webサイト(禅の教え/禅とは)・ウィキペディア・ウィキメディア・コトバンク(朝日新聞社、VOYAGE MARKETING)

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