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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第3章 千利休とは

革新と創造とその先に

利休の革新と創造性

前ページ「待庵に見る利休の茶の湯空間」で見てきたように、利休は、紹鷗時代からの規範とされていた茶室に創意工夫を試みました。茶の湯を「大成させた」という言葉をよく目にしますが、完成度を高めたというより、過去の規範や形式を再定義する「革新」でもあり、新たな美の「創造」とも言えると思います。そして、それは茶室にとどまらず、茶釜、茶器、竹の茶杓(ちゃしゃく)、塗り物など茶道具全般と、花入、指物(さしもの)、床の間(とこのま)の壁に飾られる掛物から茶の湯に出される食事「懐石(かいせき)」にまで及びます。

茶道具については、既にあるものから選ぶのでは満足できず自ら創り始めました。
「茶杓」とは抹茶をすくうための「さじ」ですが、この竹の茶杓と花入は自らの手で作ったようです。釜や器については理想とする「あり方」が見えていたのだと思います・・・それを職人の手を借りて表現しました。
特に有名なのが、楽長次郎(らくちょうじろう)の茶碗でしょうか。ロクロを使わず手でこねて形作られる焼物で、赤土の赤色または黒々とした色の、素朴な味わいの茶碗です。均整のとれた装飾的で美しい唐物の茶碗が持てはやされた前時代からすれば、見る者に、存在の意味を問うているモダンアートかオブジェのように、革新的で衝撃的な試みだったと思います。

利休が求めたもの

ただ、天下一の宗匠となった後、利休にのみ見える理想の美が、一般に理解されにくくなっていったようです。禁中茶会を経て、ピークを迎えていたはずの天正15年〜16年(1587年〜1588年)あたりには、利休の好みの道具はもう廃れている、という噂まで流れていたことが、当時の文献から見て取れるそうです。
信長そして秀吉の政治に取り込まれ、利休の意に反して打算的に行われる茶の湯に嫌気が差したのでしょうか。政治・商い・茶の湯・禅という組み合わせに、どこかしっくり来ない不和感がありましたが、天下一の宗匠となったが故に、純粋に自身の茶の湯を追求しようとし始めたのでしょうか。

専門家でない個人的な推論ですが、利休は、茶の湯に「無作為の美」を求めていたのだと思います。 必要以上に人の意図や手の入ったものを否定し、とはいえ全く自然にはできないけれども最小限のお膳立てをした結果、偶然に姿を現す趣ある侘びの世界の美しさ。自分が「こうしたい」と思う気持ちや、自らの手から離れたところで見出される美は、利休にとって露地に散る一枚の落ち葉だったかもしれません。或いは手仕事ゆえに均整のとれなかった茶碗だったかもしれません。
その美への探究は、自我という意識を捨てた禅的な「無我の境地」を得ようとする姿にも見えてきます。

茶の湯を通して、自らの内にある、美的な悟りに近いものに触れようとしていたとすれば、晩年の利休には、秀吉の声も、世間の評判も、葉のかすれる音くらいにしか聞こえなかったのでしょうか。
「茶禅一味」
ぐつぐつと湯が沸く音だけが静かに響く、狭く、薄暗い侘びた茶室の中で、ひとり茶を点てる利休を想う時、この言葉が真実味を帯びて思い起こされます。

参考文献および参考Webサイト

・別冊太陽「千利休」(2008)平凡社・別冊宝島「千利休」(2013)宝島社・前久夫(2002)「すぐわかる茶室の見かた」東京美術・谷端昭夫「茶道の歴史」(2007)淡交社
・ウィキペディア・ウィキメディア・コトバンク(朝日新聞社、VOYAGE MARKETING)

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